大阪の地とお道(黒住教)とのご縁は、教祖神ご在世当時からその端を発し、伊勢参宮の途次、当時備前藩の大阪蔵屋敷定目付「三沢佐兵衛」さんの懇望を入れ、お立寄りになられてご講釈を遊ばされたご事績から伺って参りますと、130年に及ぶ長い歴史の土壌にはぐくまれたお道の開花であり、20年の若木の根はいとも深く、太いものであることを知らされるのであります。
弘化2年7月からは、教祖神ご名代として蜂谷俊造・櫻井喜間太両先生が来阪されてご布教になり、時尾克太郎(宗道)先生のご布教の成果として堂島講席が立ち、更には「いそしくも 立ちいづるかな 日の本の 元の誠の 道を踏みつつ」という時尾先生の餞(はなむ)けの歌を体して、川崎安次郎先生の渾身の伝道が展開されるなど、浪花の名にふさわしいお道の華がつぎつぎに結実を見、明治の初期には布教部布教課大阪出張所が開設され、靱・堂島・堀江・順慶町・島ノ内・浪花・越後町・川口各小教会所及び本田・古川説教所の開講を見るに至りました。
明治9年、本教別派独立の願書を教部省へ提出しました当時の正式報告書によりますと、大阪府下の願人数(信徒)18,500名で全国6位、神葬祭人員(教徒)1,307名で全国中4位をかぞえるまでの教勢になっておりました。
今日皆さまとともにお道のお蔭を受けております私たちは、大なり小なり130年間に培われ来たこれら地心のお道の根から、芽を切り枝葉をつけて繁茂する、倖せな日々のおめぐみを頂いていることになります。 お道のご縁ぐらい、本当に遠いようで近いものはありませんね。
戦前(昭和18年)には大阪市内に順慶町中、島之内中、新町中、堂島、川口、築港、大道(旧上町)、四貫島と8ヶ所の教会所が在り、それぞれ熱心に布教活動が行われていて、各教会所毎に婦人会や青年会も結成され、また信徒宅を持ち廻りの天心講、御祓講などと信仰活動も活発に行われていました。 そのほか毎年大阪教団として合同で、管長様(当時の教主職の呼称)をお迎えして教師大会(説教大会と呼ばれていました)・婦人大会を中心部の教会所にて交互に催され、在阪の教師信徒がこぞって参会し、和やかなうちに盛況を呈しておりました。 また昭和14年以降終戦直前まで各教会所に青年隊支部が結成され、大阪支部連合会が組織されて統一的活動も行われ、当時の大阪の地に大道を掲揚することができました。
ところが、昭和20年の戦火によりまして、大道教会所を除く7つの教会所がすべて焼失し、主管者は不在となり、信徒も罹災あるいは疎開などで遠隔の地に移住するなど、一時は中断の形となりましたが、暫時信徒総代宅等を仮事務所として辛うじて祭事を再開する運びとなり、その後市域の復興するにつれて、一日も早く教会所の復興を図るべく、かつ、この機会に合同の大教会所をと、篤信の有志を中心として協議が進められてまいりました。
昭和24年4月24日、大阪の天満宮御本殿において教主様(五代様)司祭のもとに大阪教団復興祈願祭を執り行い、その機会に同社務所において関係者が協議のうえ“黒住教大阪教団復興新生会”を結成し、教主様を総裁に仰ぎ、会長に中島教区長(当時兼任)、副会長に井上吉松・閑重之両氏が推され、旧在阪教会所が合同して大阪教団を復興するという気運が愈々具体化して、その第一歩を踏み出すことになりました。
翌25年3月1日に大阪大教会所設立担当者として、本部より大森康生先生をお迎えし、3月12日阿倍野区昭和町4丁目に設立事務所を設け、各教会所の御神霊を合斎し、教師信徒も集まって定期的に祭事を執り行う運びとなりました。
その後、分散した信徒を逐次結集しつつ、幹部においては建設予定地の確保に鋭意努力して、幸い現在の逢阪1丁目に好適の土地を得、日曜日毎に信徒の汗の奉仕による地ならしが行われるなど、着々と準備が進められました。
昭和27年10月3日まずこの地に教務所を建てて、ここを仮殿として御神霊をお遷しいたし、毎月の祭事や大祭を執り行うこととなり、大教会所設立の基盤が、次第に確立したのであります。 一方、各教会所の戦災跡地の処分引き継ぎも、困難な点の多いなかに漸く前向きに進展し、また急速な市域の復興に伴って罹災避難先や疎開先から復帰される信徒も増え、婦人会や青年連盟も順次結成されて、一日も早くご教殿の建設が望まれる状態となって参りました。
ここにおいて、旧教会所戦災跡地の処分によって得た基金を基礎資金とし、道連れ諸氏の真心による建築資金のご献納を頂き、また矢野橋村画伯が奉賛のため特に執筆された絵を頒布して得た資金も加え、さらに奈良県切幡教会所の皆さんから多大のご献木を賜るなど各方面のご協力によりまして、29年3月からご教殿の建築に着手し、同年7月7日に上棟式を行い、その秋に芽出度く落成を見たのであります。
同10月24日午前2時を期して、浄闇の裡に新しいご神殿への遷座祭を厳粛に斎行、引き続き正午より教主様ご親祭のもとに記念祝祭を挙行、名実ともに大阪大教会所が誕生いたしました。
ここに到るまでの大森所長を始め世話役、お道づれの方々のご苦労はまことに言語に絶するものでありますが、教祖宗忠神のご教語にございます“難ありありがたし”のみ教えそのままに、お蔭を戴きました次第で、尊いご神慮によるものと、一同深く感激したことでございます。
20周年祝祭記念誌「なにわの道芝」 (昭和51年9月発行)より
押照哉難波ノ都青雲ノ空打渡シ百敷ノ街々ヲ見霽ルカス此ノ清キ処ノ美キ処ニ嚴ノ神殿輪奐モ麗ハシク永遠ノ鎮殿ト齋ヒ奉リ鎮メ奉ル 掛巻モ綾ニ畏キ 天照大御神ノ大御前及八百萬神等教祖宗忠神ノ御前ニ 畏ミ畏ミモ白サク
抑モ此ノ難波ノ地ハ夙ニ吾ガ教祖神ノ御足蹟止メ給ヒシ由緒アル所ニシテ神風ノ伊勢ノ宮居ニ参詣デ給ヘル途次 豫テヨリ深キ情誼ニ交リアリタル三澤佐兵ヱヲ訪ヒ給ヒテ御教ノ崇キ御旨ヲ説キ闡シ給ヒシ事一度ナラズ其ノ後モ四高弟ノ一人時尾宗道ヲ差シ遣ハサレテハ廣ク大御道ノ妙ニ偉キ御諭ヲ宣ベ布カシメ給ヒシカバ大和屋直助等志向篤キ道連モ出テ来テ美シ誠ノ大御道ノ漸次ニ擴リ行キ眞白弓春秋ノ歳月ヲ経ル隨ニ御蔭被ル人弥多ニ御神徳仰ギ奉ル人弥滋ニ咲ク花ノ色多彩ニ匂フガ如街トイフ街里トイフ里ノ要衝被教會所ノ建テ設ケラレテ教勢 日ト共ニ伸ビ行キ月ト共ニ栄エ行ケルハ天地自然ナル道理ナガラ又最トモ奇シク綾ニ尊キ大御神ノ大御神慮ノ御依ニヨル事トナモ仰ギ奉ルモ畏キ極ミニコソ然ルヲ清明ケキ月ノ光モ時ニ天雲ノ遮ル例ニ漏レズ時勢ノ変轉リト人ノ心ノ各様ニ動キ搖ビテ御代ノ名モ改マル昭和ノ初メツ方ヨリハ妖シキ戦乱ノ黒雲次ギ次ギニ立チコメ拡ゴリ行キ軍ニ第二次ノ世界大戦 トハナリ其ノ最終ニ近ヅキタル昭和二十年ノ中頃ユ見遙カス大空ヨリ火箭ト降リ来レル焼夷弾ノタメ有リト在ル家モ木モ焼ヘテ一夜ノ中ニ数アリタル教會所モ空シク影ダニ止メズ焼ケ失セケレバ口惜クモ誠ノ道ノ清キ尊キ根據モ深山木ノ苔ノ下伏ス棘蓬ガ下に朽ナ果ツラムト思量ヘシガ昭和二十四年四月ニ至リ戸田總務・中島教区長ノ執リ持チニテ「大阪教団復興達成懇談會」ヲ開キ催ス運ビトハナリ井上吉松・閑啓太郎(重之)等故々太久ノ懇信家達ヲモ交ヘテ詳ラニ協議リ成シ戦災ニ遇ヘル教會所諸々ヲ一ツニ併合セテ「大阪大教會所」テフ商都ニ相慶ハシキ瑞ノ神殿建テ設ケ奉ラム大方針ヲ打チ樹テ定メ昭和二十五年三月ニハ大森康生ヲ所長ニ迎ヘテ道ノタメ教ノタメニ村肝ノ赤キ眞ノ心ヲ捧ゲ奉ル道連達弥豊多ニ打チ集ヘツツ後ノ世ノ道ノ大キ微ニモト茨枸橘千々ノ艱難ヲ踏ミ分ケ除去ケ一向ニ恪キ勤メケル間ニ早クモ昭和二十七年十月ニハ假ノ齋殿ヲ此ノ逢坂上ノ町百番地ニ建テ設ケルニ至リ更ニ玉櫛笥身ヲバ投ゲ擲チテツトメツクセシニ夕年ノ星霜ヲ閲慈ニ松ガ根ノ待チ望ミ来シシ新神殿ノ本ツ建築全ク竣工ヘテ新殿祝祭仕奉ル日ヲシモ迎フルハ実ニ芽出タク喜バシキ限リニゾアリケル
故久方ノ元津御光豊ニ菊ノ香リモ馥郁カニ薫ル今日ノ生日ノ足日ニ廣ク関係アル司々ノ人等ヲ招キ教師信徒達モ多ニ参来集ヒテ大御前ニ御饌御酒種々ノ珍物ヲ捧奉リ豊賀ギ神賀ギニ賀祝ヒ奉ル状ヲ平ケク安ケク聞食シ相諾ヒ給ヒテ 築キ立テシ御柱ハ下ツ岩根ニ動キ寄リ来ル大キ地震ニモ搖ギ傾ク事ナク取葺ケル甍・板目ハ天ツ空ユ吹キ荒ビ来ル暴キ雨風ニモ狂ヒ落ツル事ナク桁・梁・戸窓ノ凡テ錯ヒ動キ鳴ル事ナク迦具土ノ災アラシメズ常盤ニ堅盤ニ守リ給ヒ道連等ノ家ヲモ身ヲモ恵ミ給ヒ幸ヘ給ヒテ今日ノ佳キ日ノ御祭ヲ好キ契機ト愈々益々此ノ教會所ノ将来幸ク眞幸ク立栄ヘ行キ大御道ノ高キ御諭ヲ宣ベ弘メシメ給ヒ道連等諸々ヲシテ吾ガ日ノ本ツ国ノ平和シキ隆昌ヲ来スベク一層強ク勇マシク立働カシメ給ヒ大御陽気被リ奉ル人弥多ニ蕃息シメ給ヘト畏ミ畏ミモ白ス
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大阪市天王寺区逢阪1-3-14
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