黒住教は、江戸時代に黒住宗忠神が立教された昇る朝日を拝む「日拝」の宗教です。
お日の出を拝み、感謝と感動の心で誠を尽くすこと、すなわち「まること」の精神で生きることを日々のつとめとしています。
御 祭 神 | 天照大御神 八百萬神 教祖宗忠神 | ||
教 祖 | 黒住 宗忠 (1780−1850) | 立 教 | 文化11年(1814)11月11日 |
教 主 | 黒住 宗道(七代) | 教団成立 | 弘化3年(1846) |
本 部 | 岡山市尾上神道山 | 公称信者数 | 約30万人 |
師の神はいかがますらん拝みみれば
天皇(すめらみこと)の拝みます神
一宮の禰宜(ねぎ)の子として生まれ、孝に徹し、天照大御神の道を明らかにし、世人救済に努め、自らは謙虚世に処し、はき古した草履を拝み、泥んこになりながら土橋の穴を直すニコニコの好爺が百世の師表として、天皇の尊崇を受けるに至ります。
教祖黒住宗忠(くろずみむねただ)神は、道をお説きになること37年、嘉永3年2月25日、71歳(数え年)で御昇天になりました。 その後6年を経て、安政3年3月、『宗忠大明神号』を神祇管領吉田家より授けられ、文久2年2月には京都の神楽岡に宗忠神社々殿が竣工し、引き続き慶応元年4月、「勅願所(※)」を仰せだされ、同2年2月には、更に「神楽岡宗忠神社」として「従四位下」の神階が宣受されました。
すなわち一宗一派の祖神として、信徒の奉斎するのみでなくて、実に公に崇祀し給う神となられました。
当時、京都に於きましては御皇室を始め、二条・九条・三条(維新の元勲にして、後に太政大臣に昇進された三条実美公が、教祖神に奉られた『神文』が現存しています。 其他数名の公卿の方々のも保存されています)六条、柳原等の諸公卿の尊信極めて厚く、一般市民に至りましては、無上の崇敬と歓喜を以て深く帰依し、宗忠神社に参拝するもの、日々千人を下らずと云う勢いであったと伝えられています。
其の後、明治18年、御誕生の霊地大元にも「宗忠神社(むねただじんじゃ)」が造営され、そして昭和49年、それまでの160年間本部であった霊地大元から壮大なお日の出を求めて黒住教本部を「神道山(しんとうざん)」に移り上がりました。
神道山は、岡山平野を見晴るかし、遠く小豆島から瀬戸内海を眺める吉備の中山の東南に位置する、約10万坪(33万平方メートル)の丘陵地です。 吉備の中山は、古代の大和、出雲両文化に並ぶ吉備文化の中心地であり、太古より神山としてあがめられてきた聖域であります。 中央に吉備津彦命のご領をはじめ、西北に吉備津神社、東北に吉備津彦神社が鎮座し、全山これ神々の山と申せましょう。
ここに「太陽の神殿」を祈って「大教殿(※)」が立教160年の秋竣工し、10月27日に大元から御遷座のみまつりが執り行われました。
どの所も全国の信徒のみならず、宗派を超越して、一般の人々の厚く崇敬する所となっています。
※勅願所(ちょくがんしょ)・・・天皇陛下が、国、国民の平安を祈願される神社仏閣のことをいいます。 代々の天皇陛下は、いくつかの神社やお寺を「勅願所」にされていましたが、神楽岡の宗忠神社は孝明天皇が定められた、ただ一つの勅願所で、幕末動乱のこの時代、日本と国民の平安を祈る祈願がたびたびなされました
※大教殿(だいきょうでん)・・・その構造様式は日本古来の建築にのっとった四方切妻入母屋づくりで、五百坪、三百畳敷きの建物です。 内部は伊勢神宮から賜ったひのき材をはじめ、直径1メートル、長さ10メートルの大宮柱など、5千石の木材が使用されています。 大屋根の千木・鰹木、棟瓦は、岡山県重要無形文化財、備前焼作家・藤原建氏が八十トンの備前の土をつかって、製作した備前焼でつくられ、大屋根には、宮城県産出の玄昌石が板状に切られて十八万枚葺かれています。 大教殿のすそをはじめ周辺には、愛媛県石鎚連峯から運ばれた安山岩が使われています。 ほとんど一年中、鶯をはじめ小鳥がさえずり、陽光ふりそそぐ緑の霊地が神道山です。
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